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水曜日, 12 月 31st, 2008 | Author: Nao

 今年最後のコラムになりそうです、こちらTHCのサイトで2008年を振り返る、といった記事があり、このHPも紹介してもらいましたので(thanks)、関西blogでも2008年を振り返ってみようかなと思います。

 2008年の大麻報道を振り返る前に、カンナビスト@関西の活動をまとめておきます。

 2008年マリファナ・マーチ(Osaka)をやろうという話しになったのは、去年の今頃だったかと思います。2007年はスタッフ(というか私)の都合で開催できなかったのですが、2008年はやっぱりやるべきだという意見が、東京在住のスタッフや、古くから関西で活動を支持してくれている人の間から上がりまして、じゃあ私がイベント運営をやりましょう、という流れになりました。

 どの地域でもそうなのだろうと思いますが、特に関西という地域は、都市圏がばらけていて(大阪・神戸・京都)、かつ幾つもの地方都市がその周りにあることから、一都市に運動の中心を据える、ということが東京と比べると、比較的難しいということがあります。

 ところがその反面、一旦やろうということになると、それぞれの地域の人が、それぞれのネットワークをもってやってきてくれるので、非常に広域的なイベントが開催されることになるんじゃないかとも思っています。実際、数の上では東京のマーチよりは少なかったものの、大阪マーチは東京よりも広域(四国から名古屋まで)をカバーする運動になったんじゃないかなと思います。

 そして、結局マーチを開催できたのは、私ではなく、他の人の力に拠るものだったということを再度付け加えておきます。それは各地域から参加してくれた人はもちろんのことですが、実際運営に携わってくれた、当初全く会ったことのなかった人が、現在もボランティア・スタッフとして一緒に活動をしてくれているということであり、また、知り合いの知り合い、といったレベルであっても、運動に趣旨に賛同してくれた人が、完全にタダで出演などを引き受けてくれた、ということでもあります。この場を借りて感謝申し上げます。

 さて、2008年は特に後半、「大麻汚染」報道が耳目を集めた年でした。初夏迄は、船場吉兆など「食品偽装」問題が主なワイドショーの対象になっていましたが、偽装問題がマンネリ化して話題がなくなったころに、若ノ鵬の逮捕があり、「大相撲大麻」問題から一連の大麻バッシングがスタートしました。もちろん、この背景には昨年からの「関東学院ラグビー部事件」があったりして、大麻問題をおどろおどろしく報道する、という下地は既にあったものと認識しています。

 ところで、私は丁度、関東学院ラグビー部事件の後、学会で関東学院に行く機会がありました。あれほど騒がれた直後なので、学生や大学当局から何らかのアクションがあるものだと期待していったキャンパスには、何事もなかったかのようにクリスマスツリーの準備がされ、土曜日の中庭に人はまばらでした。いや、あの「ラグビー部事件」ってホントに関東学院だったっけ、と携帯からニュース検索しちゃったほどです”(,, ゚×゚)”

 報道が「空虚な中心」だったのでしょうか、あるいは大学が「空虚な中心」だったのでしょうか。

 おそらく、その両方だったのかもしれません。ラグビー部事件について、学生へのお説教を書いたA4一枚の学生課からの通達が、わずかに貼られていた程度でしたし、学会案内の学生をつかまえて、ラグビー部事件の話題を振ってみても(ゴメン)、「そうですね~、で、何か?」といった具合なのです。

 その学生としては、同じ大学の学生が逮捕されたり「連帯責任」を負わされていることなど、以前の「食品偽装」問題の当事者と同じく、全く縁遠い、ニュースの中の出来事でしかなかった。もちろん、その学生を批判したいわけではなく、単にそのようなものに過ぎない、ということだったのです(おそらく、私の大学でも事態は同じだったでしょう)。

 それは、単に毎日繰り返される、「パレスチナ人の死傷者が戦後最大の日」や「牛肉の表示偽装」や「また大麻で逮捕、覚せい剤も所持」といったトピックに埋もれた、特別性の日常的な反復に過ぎなかった。「偽装問題=ニューストピック」が特別化されているのか、「特別なこと」が偽装されているのか。少なくともそこでは、殺されたパレスチナに住む人々の「顔」は、何の問題にもならないのです。

 そこでは「特別なこと」が一般化され、単純化されることで反復される。なぜなら、本当にその「特別なこと」を引き受け、リアルなこととして対処しようとすると、あまりの複雑性にニュースは成立しえないからです。したがって、ニュース的なものに対する最も正しい対応は、それを聞き流すことでしかない。

 結局のところ、私も、多くのニュース的な「特別性」に対して、何も知りえず、何も活動を行うことはできないのです。わずかに、大麻所持によって懲役刑を科され、ある種の人々が社会的に排除されることに問題を提起することでしかない。最終的には、どのトピックに自己の問題関心を注ぎ込み、その「問題」に対する行動を行っていくかを決めるのは、偶然であり、決断でしかないわけです。あるいはあの学生は、大麻問題ではなく、もっと別の問題に取り組むものであったのかもしれない。

 それを重々承知した上で、それにもかかわらず、私がここで特権化したいのは、取り組むべき問題とは、<生>に関わる問題であるべきであろう、ということです。

 それはいかなる人々(あるいは生物)が、いかなる方法で生命や自由を剥奪され、「生きるに値しない生」として名指しされているのかを考え、行動することに他ならない。それは決して、いかなる消費物を持つべきかといった、消費社会における差異の提示―ニューストピックの提示手法と同列の価値を持つものではありません。だからホルクハイマーは、そうした方法による隠れた他者の利用は「道具的理性」によるものだと述べました。

 したがって、ニュース的なトピック提示手法に抗する生き方、運動の方法とは、パレスチナ問題と芸能ニュースを、同列の平面における「話題」におくことで他者を消費することではなく、たった一つの他なるものに関わることでしかない。カンナビスト@関西はまだそうした問題に関わり始めたばかりですが、そうしたものでありたい、と願いつつ2009年を待ちます。

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月曜日, 12 月 29th, 2008 | Author: Nao

東京はお台場で開催された「カンナビス・トークフェスタ」が関西でも行われます (前回のトークフェスタ⇒http://www.cannabist.org/i/info/081014talkfest.html

 「大麻問題」といえば、「大麻汚染」でしか語られない日本の閉塞した言論状況に、変則的かつマジメにアプローチするカンナビス・トークフェスタ。

 大麻問題とは、これまで見過ごされたきた多くの人権問題と同じく、それ自体が問題なのではなく、日本におけるメディアのお馬鹿さや、官僚制の杜撰さや、世人の無関心に由来する創られた問題にすぎない!

 大麻喫煙者を逮捕することで何の「問題」が解決するのか。大麻所持者を無造作に逮捕するこの国の状況に対していくつもの異なる目線―政治哲学・権力論・医療大麻・ヘンプ産業論―を、「大麻問題」にかかわる新進気鋭の論者が議論し、フロアと対話する。

 大麻問題とはこの国で<生きること>の問題である。

カンナビス・トークフェスタ in Osaka

日時:2月22日(日)14:00開場 14:30スタート、17:30終了
終了後 懇親会もあります

場所 :劇場 AManTo天然芸術研究所
大阪市北区中崎西1-1-18 tel : 06-6371-5840

(地下鉄谷町線、中崎町駅、4番出口から北へ徒歩30秒・梅田HEPFiveから東へ10分)地図はこちら
*入場料
2000円、学割・予約1500円 (ドリンク補助券あり)

内容

非犯罪化とリベラリズム ―「大麻問題」を思考するということ
 山本奈生(カンナビスト@関西、社会学者)
 
 *「大麻問題」を単に逸脱の表象としてみるのではなく、少し距離を取って眺めるのであれば、それはリベラリズムの問題として現れる。権力論と社会運動、リベラリズムと犯罪統制という角度からみた「大麻問題」とは何か。

EUにおけるドラッグ政策 ―ハームリダクションが前提とする<社会>
 Zanjibal(社会学博士―犯罪社会学)
 
 *ドラッグに対する「ゼロ寛容」政策が想定する<社会>と、ハームリダクション政策が前提とする<社会>の違いはどこにあるのか。日本におけるドラッグと家族の問題から、社会の差異を論ずる「ドラッグの社会学」。

アジアは大麻草で結ばれる ―第2回アジア大麻産業国際会議の報告 (対談)
 赤星栄志(ヘンプ読本著者)・竹田広雄(オリオン・大阪大麻自由学校事務局)
 
 *中国・韓国では近年、ヘンプ産業の進展が著しい。韓国では大麻経済特区についての議論も起こっており、ヘンプ産業の国際会議が開催された。赤星氏と竹田氏は日本における、この分野の先駆的人物であり、同会議の報告と、日本におけるヘンプ産業の今後について対談が行われる。

大麻問題と自由で暮らしやすい社会
 麻生結(カンナビスト)

 *現在起こっている「大麻汚染」バッシングは、逆手に取れば「大麻非犯罪化」への道標だ!大麻問題が実際に引き起こしている「問題」とは何か、ストリートの「ドラッグ・ユーザー」にとって大麻摘発とはどのような出来事なのか。ちまたで言われる一面的な「大麻合法化論」の理解を糾し、摘発に抗することの困難/面白さを論ずる。

主催:市民団体カンナビスト (トークフェスタ運営:関西地区有志)http://www.cannabist.org/index.html

予約連絡先:cannabisty@mail.goo.ne.jp もしくはCafe天人にて受付けています

以下企画者コメントです

○入場料が発生してしまって申し訳ないです。場所代&諸経費がかかってくるので、儲けを出すためではなく、赤字にならないために映画一本分の代金をいただくことにしました。予約を入れていただければor学生証を提示してもらえれば500円割引です。講演料はどなたにも支払っていないので、シンポジウム・講演会としては安めになりました、ご容赦下さい。

○場所は、大阪キタの文化発信地中崎町のど真ん中です。当日は中崎町駅4番出口にて案内を出します。梅田からはHEPFiveから環状線に沿って東に10分弱歩けば、中崎町駅に着きます。

○開催場所の天芸は、古い倉庫を改修した小劇場です。30名くらいは余裕で入れますが、何人きてもらえるか心配です”(,, ゚×゚)” となりには、朱家というBarがありますので、講演会終了後はそちらで是非皆さんと「大麻問題」について語り合いたいと思っています。

○こうしたイベントは、「大麻問題」に関心を持つ人々が、ネットワークを広げ、共に学びあうことを目的としています。いわば、間接的に「大麻非犯罪化」を進め、文化的に抵抗を行っていく場でもあります。もちろん、カンナビストは大麻喫煙を薦めるものでは全くありません。違法な物品・法令に触れる行為は厳禁です。

○フライヤーは1月上旬に完成予定です。フライヤーを配ってあげるよor置いてやるよ、というありがたい方は、主催者メールまでご連絡下さい。

○カンナビスト@関西では、スタッフを年中募集しております。

主催者メール:cannabisty@mail.goo.ne.jp

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土曜日, 12 月 27th, 2008 | Author: Nao

 morleyさんのblogで、先日の記事とmorley掲示板がリンクされています、thx。

 掲示板は見てのとおり、反対派の声が大きいようです。さて、ここ数年、カンナビストの活動に関わってきて、反対論のタイプが概ね限定されていることに気づきました。また、いわゆる反対派の議論を、私は面と向かって言われたことがそれほどなく、その8割以上はNet上での(匿名の)反論です。

 とはいえ、反対論というか、批判が出てくること自体はとても良いことです。少なくとも全ての人が「ダメ絶対」と思っている場では、そもそも批判自体が意味を成さないわけで、反対の議論が出てくるということを、運動的には歓迎すべきです。

 抵抗とは、常に権力の裏返しなのであって、抵抗のないところでの権力、中立的な権力は存在しません。(あるとすれば、それが命令だとすら受け取られない、無条件の力でしょうから)

 しかし、ほとんどの反対論が非常に表面的な批判であることを、私たちはまず恥じるべきです。それは、非犯罪化側の議論が、表層的であることの裏返しであって、本来、人間と国家、犯罪と処罰といったテーマに関わるべき大麻非犯罪化という問題が、非常に矮小化された舞台で議論されていることを、私はまず恥じます。

 私にとって、大麻問題、あるいは大麻非犯罪化運動とは、どのような社会で人間は生きるべきか、国家と社会の関係はいかにあるべきか、といった問題と繋がっています。もちろん、運動の目的は大麻取締法による処罰が(実質的に)撤廃されることであり、諸々の活動は、そのために行われています。ところが、そうした問題に取り組み発言していくということ、それは上記のような、「社会的なもの」に関わる問題であるということをはっきりと明示しておきたいと思います。

 もちろん、それはイデオロギーでもあります。イデオロギーという言葉をどのように理解するかという問題にもなりますが、ドイツ社会学の本流的見解に即していうのであれば、上記のような考えは「イデオロギー」です(あるいは、ユートピアかもしれません)。

 ところが、日本ではイデオロギーという言葉が非常に曖昧かつ、限定的に用いられています。⇒曖昧なのに、狭義の意味合いしかもっていません(´ヘ`;)

 それは、ある特定の集団や、党派に結びついた考え、といった程度の意味合いであって、例えば「共産党イデオロギー」や「天皇制イデオロギー」といった言葉で用いられます。

 もちろん、私がここでいうイデオロギーとはそうした日本的用法ではありません。それはある種の観念や社会像を背景にしており、そうした諸々の表象から切り離すことのできない言語の体系のことです。だから、K. マンハイムは「知識とは全て社会的に拘束されたもの」であり、私たちの考えは、それが生まれた特定の時代や社会的背景から決して切り離しえない以上、必ず「社会的」なものにならざるを得ないのだ、と述べました。

 そしてマンハイムは、そうした観念の体系のうち、歴史的に「現実を超越しているが、実現しなかったもの」のことをイデオロギーと呼び、「現実を超越し、そしてそれが実現したもの」をユートピアと分類します。

 さて、話しがそれましたが、ドイツ社会学によるこうした広義の「イデオロギー」の定義におそらく一番近い日本語(orカタカナ語)の用法は、おそらく「思想」や、もしかすると「スタイル」といった言葉なんじゃないかと思います。そうした意味で、非犯罪化運動は、ある種の、しかし決して単数ではないスタイルと結びついているだろうし(例えば、ヒッピームーブメントや、ラスタ・レゲエ的なものや、環境主義や、あるいは言語化されていない「違和感」と)、そうした意味ではマンハイム的な「イデオロギー」と無縁ではありません。

 同時に、反対派の人々も何らかのイデオロギーとは、決して無縁ではなく、いやむしろ、警察や「ダメ絶対センター」の場合であれば、日本の特殊限定的な用法としての「党派性」とも結びついています。すなわち、55年体制や、官僚主義とです。

 そして断言しますが、カンナビストや、その他の私が知る限りの大麻非犯罪化を求める集団は、特定の党派や利害集団と結びついているわけではありません。これは、党派を巡るありきたりな政治の場ではなく、「社会性」を巡る舞台なのです。

 さて、カンナビストとは関係なく、私個人の「思想」についていうならば、私はまず大雑把な意味でのリベラリストです。リベラリストといっても、経済学的な自由主義のことではなく、J, S. ミルなどのリベラリズムのことであり、そして、それを補完するものとして、数ある理論の中でもM, フーコーの権力論・言語論に強い影響を受けています。(フーコー主義というものは、その思想の内容からして存在しないので、ゆるやかなFoucauldianという言い方になります、フーコー的な考え方に依拠しながらモノを考える人、くらいの意味でしょうか)

 もう少し言えば、フーコー萌えな人です、もちろん、他にも影響を受けた/萌える思想家や文章は多くありますし、社会像や、概念の使い方でいえばN,ルーマンも、J,ランシエールも好きですが、まずはフーコーLoveです。

 フーコーは読み方次第ですが、とくに専門的な知識がなくても、十分に読んで面白い/理解できる文章を書いています。そして彼は、非常に優しい思想家です。決して攻撃的な批評家流の文章ではなく、丁寧に折りたたまれた文体の中に、「権力」に対する違和感が、しかし断固として表明されます。

 横道にそれてしまいましたが、私は、反対派の意見がとても表面的なものであることを、まず恥じます。すなわち、「他国で吸えばいいだけ」「嗜好品として合法化(非犯罪化)するメリットは何?」「もし問題が起こったら誰が責任をとるの?」…etc

 こうした問題は、もちろんナンセンスです。主な答えは先日の「大麻取締法にはノーを、哀しみもたらすだけ」で書きました。

 「合法化するメリット」について、税制の問題や警察費・刑務所費の試算を用いたりすることで、反論することは容易です。99%の反対派はそうした論文を読まずに、「合法化するメリットがない」と言います。そうした意味において、まず無意味な質問です。

 しかし、もっと本質的に無意味なことは、「合法化することのメリット」は、日本における状況下では、全くどうでもいいことだということであり、そんなものなくても良い、ということ、そしてその事を反対派も多くの肯定派も取り違えているということです。

 これが、オランダやイギリスであれば状況は違います。すなわち、販売をどのように許可するか、栽培は認可すべきか、といった政策的問題を論じる際に、経済的な試算や政策論は欠かせません。

 ところが、日本での問題はそうではない。そうではなく、大麻取締法という名前を持った刑罰によって、ある種の人々を投獄することが妥当かどうか、という問題がまず問われなければならないのであって、これは、国家がどのような行為を犯罪と認定し、どのような人々の自由を奪いうるか、という問題なのです。だから私は「合法化のメリット」について問われれば、説得のために色々説明する場合もありますが、合法化のメリットなど、この議論と何の関係がある?という答えを胸の内にもっています。

 ハンセン氏病の人々を隔離しないことに、税制上のメリット、社会的なメリットが必要でしょうか。あるいは、障害者を強制収容しないことに、同性愛者を逮捕しないことに、ある種の政治的なパンフレットを持つものを逮捕しないことに、何のメリットが必要でしょうか。

 そこで問われているものは、ある種の人々の自由を奪うことの根拠であり、決して、逮捕される側にではないのです。この場合、立証責任は断固として逮捕する側にある。すなわち、大麻喫煙者や/ある種のパンフレットを持つことや/同性愛者を逮捕・監禁する側が、誰の法益を守るために、どのような社会を守るために、誰の自由を奪いうるのかを説明する必要があるのです。

 そこに、税制上・政策上のメリットがあろうがなかろうが、ある種の行為が他者の法益を犯さず、公共の利益を著しく損なう(通貨偽造のように)ことがないのであれば、逮捕するに足る根拠など、何一つないということを、まず我々は言わなければならない。

 「国外で吸えばいい」といった言い方も同様です、そうした問題の立て方は、日本という国家における刑罰が、どのようにあるべきかという問題を棚上げしたまま、その責任を「個人」という主体に還元してしまう。問題は、「個人」がどのように行動すべきか、という道徳論ではありません。

 国家と刑罰、そして社会のあり方が疑問に付され、議論されるべきなのに、なぜか問題が「個人」の道徳論(お前の自己責任だろ論)や、メリット論(大麻吸わない人に何か得があるのか論)になってしまっている、それに対しては、問う場所が違うんだよ、と答えるべきです。

 問われるべきは、なぜ「大麻所持者」がこの社会において、「生きるに値しない生」と名指しされ、そして監禁されているのか、それを正当化するメカニズムとは何か、といったことなのであり、それらの問いのすぐ先に、私個人にとってはここまで述べてきた問題があるのだと考えています。(もちろん、別の人がその先にどのような問題を考えるのかは全くの自由*です。)

 *「私たちカンナビストに共通の主張があるとすれば、それは次の一語のみである。すなわち、大麻喫煙者の逮捕は権力の濫用である。残りの主張は各人が好きなように埋めるだろう。なぜなら、カンナビストは存在しても、カンナビス主義はどこにもないからである。」http://www.bvoh.jp/cannabist/?p=132

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水曜日, 12 月 24th, 2008 | Author: Nao

安直なタイトルにしたのは、「夜回り先生&大麻」でググった人がひっかかるかなという期待を込めて。本当のタイトルは「大麻取締法にはノーを。哀しみもたらすだけ」です。

いつもながら、「夜回り先生」こと水谷修さんが反大麻論を展開しています。

大麻にはノーを。哀しみをもたらすだけ」中日新聞、12月22日

まず、私は彼の教育論には必ずしも賛成していません。しかし、彼の教育や社会活動によって救われた人がいることは事実でしょうし、そうであるならば、彼の活動を否定することもしません。というか、彼はとても「良い人」でしょう、少なくとも私よりはかなりの善人です。その点において、私は彼を評価する。

ところが、こうした新聞での言論やロビー活動は、明らかに政治的なものですし、結果的には反大麻論=大麻を吸った奴は投獄されて当然論、を補完することになっています。したがって、本記事は彼の教育活動に対する批判ではなく、彼の政治活動/ロビー活動に対しての反駁・批判です。ちなみにちょっと長くなりそうです。

上の中日新聞に掲載された彼の「メッセージ」を要約します。

○大麻使用によって摘発され、投獄されるのは「哀しいこと」である。

○ちまたで言われている「大麻は海外では合法」だ、といった議論は誤りである。なぜなら、大麻非犯罪化が行われている国では、大麻の害が少ないから摘発されなくなったのではなく、ヘロインなどの使用が蔓延し、それが「広まるくらいなら、大麻を吸わせた方がまし」だと考えているからだ。

○大麻の害は、確かに身体的なものは少ないが、精神的なものは大きい。(一人の目撃例以外、根拠はなし)

◎未来ある君たちは、決して大麻に手を出してはいけないよ(渋い声で)。

…議論というか、お説教です。もっと意義のある文章について論じたいのはやまやまですが、こうしたお説教が事実誤認や思い込みに基づいて、他者の投獄を正当化している以上、反駁せざるを得ません。

まず内容に入る前に、こうしたパターナリスティックなお説教は、非常に近代的な「家父長」の物言いです。これは伝統的な「家父長主義」とは異なります。

伝統的な家父長はこういいます

「学校に行かなくちゃ駄目だ!お前の思いなんぞ聞いていない!」

ところが、近代的な家父長はこういいます

「うん、学校に行きたくない気持ちはよく分かるよ。でも、学校に行かないとなると、君の将来が心配なんだ。だから僕は学校に行っている君を見たいんだよ」

伝統的な「命令」と異なり、近代的な権力は「君のため」を経由して、間接的に命令を発します。ところが、誰もが気づく通り、前者よりも後者の命令のほうが、抵抗を拒否し心の内面に踏み込んでいく点において、より強固な力を持ちえます。だから、M.フーコーはこれを「生―権力(bio-pouvoir)」と呼びました。こうした権力の場では都合よく召還された「君自身」が「君」への命令を行うという外見をとっているため、命令は偽装されています。

同様に、「夜回り先生」は、「君のため」を思って、君を投獄します。あるいは、あなたを投獄している制度を支持します。

「殴るほうの手も痛い」だって?殴られたほうがずっと痛い。

 

さて、内容に入ります。

まず、刑法の基礎的な知識ですが、刑法とは国民を守るために設置された制度です。そして、具体的には次の要項を禁じていますが、それは第一に、○他者の法益を直接侵害することを禁ずる、のであり、そして第二義的には○公共の福祉や利益に反する行為、を禁じています。

第一のものは、窃盗罪や、殺人罪があたります。そして大麻は、直接他者の法益を侵害するものでは明らかにない、いわゆる「被害者なき犯罪」の問題ですから、第二の「公共の福祉」に甚大な影響を与える行為に当たるとみなされているわけです。

そして、ここで言われる「公共の利益に反する」こととは、被害者が多数であるために特定できないものや、特定の被害者は存在しなくても、不特定多数の国民にとって不利益を生じせしめることが明らかである行為のことを指します。

これは例えば、通貨偽造行為や、内乱に関する罪(刑法77~80条)に対する規定のことです。

ところが、通貨偽造などとは異なり、ドラッグ問題や銃刀法の場合は、それがどの程度の害悪であれば「公共の福祉に反する」のかは、恣意的な規定に拠るしかありません。そして、日本の場合は、大麻の害悪の程度については全く吟味されたことはありませんが(大麻取締法は「ポツダム省令」に対する外交的施策だったのですから)、しかし、法的な「建前」としては、大麻の害悪が「公共の福祉に反する」ということになっています。これは科学的な判定の問題などではなく、そうでなければ法的な正当性を担保できないからです。

しかし、だからといって法律が見直されるべきではないとは全く言えません。法律は永久に固定されるものではなく、時代に応じて変化すべきものです。そして、大麻取締法の場合、その根拠となっている「公共の福祉に反する」かどうかは、その時代における最新の医学的、統計的な見解によって吟味され、常に再検討されるべきものです。なぜなら、これはまず「懲役刑」を規定し、一定の国民を束縛するものですから、その束縛が、その法的な根拠に照らして妥当であるかどうかが不問に付されることがあってはならないからです。

そして、「夜回り先生」は、大麻が「公共の福祉」に反するから、「哀しいけれども」という前置きをしながら、しかし厳然と、これを犯したものは「投獄」されても仕方ないと述べます。

その根拠として挙げるものは、「無気力」になり、「精神科」へ通院する人を見たから、ということだそうです。

まず、大麻を吸ったら「無気力」になるのか、「精神科」にかかることになるのか、といった議論は、一冊の本を書いて反論すべきことですが、その前に、先ほどの刑法の前提に戻ります。

すなわち、ある物質を用いた当事者の何割かが「無気力」になり、さらにその内の幾人かが「精神科」に通院することになったとしても、それはおそらく、刑法で摘発すべき「公共の福祉」には反していません。(ほぼ大半の使用者が、明確な因果関係を伴いつつ精神疾患になる、とでもいうなら、それを刑法の対象にするかどうかは、政治的な議題になりえます、ところが、大麻は明らかにそうではない)

それは、厚生福祉政策の対象領域であり、どのように教育活動を行っていくか、どのように患者に治療を提供するのかといった問題に属します。でなければ、アルコールであれ、ギャンブルであれ、刑法の対象にしなければならないことになる。刑法が対象とする「公共の福祉」とは決してそんなものではありません。

刑法が対象とする「公共の福祉」とは、ある物品を所持しただけでは「他者の法益」を侵害しないものの、その間接的な効果によって、犯罪を増加せしめる可能性が非常に高いもの(例えば、銃器規制)や、ある物品を用いた場合、不特定多数のものに対して、広範な法的侵害が行われるだろうもの(例えば、通貨偽造や、放射線物質の持ち出し…昨年の法案によって刑法に関連付けられました)、に対するものであり、他者ではなく、使用者本人が「無気力」になるだとかいったことは、刑法の対象には決して該当しません。

仮に「夜回り先生」の言ったことが、全て真実であったとしても、それだけでは懲役刑を科す理由としては、極めて不十分です。それは、単に政策的な規制(販売に対する規制や、課税、科料といった行政法の対象)に該当する問題に過ぎません。

さて、既に長くなってしまったので、内容への個別反論は、また詳しく書きます。ひとまず、箇条書き程度に、「先生」の主張を反駁します。

○「大麻が非犯罪化されているのは、ヘロインの蔓延が進んでいる国においてであって、ヘロインよりは大麻を吸わせておけ、という考えに基づく」という主張。

⇒8割方間違い。まず、元々歴史的に大麻が非犯罪化されている国と、ハームリダクション政策などによって80年代以降、非犯罪化がなされた国とでは全く事情が違います。また、ハームリダクションの中身も、国によって様々です。例えば、イギリスではACMDによる薬学的な知見に基づいて、アルコールやタバコ、コカインやヘロインといったドラッグを比較して、その相対的な有害性の度合いによって、刑罰が決定されるというシステムをとってきました(ブラウン政権は例外として)。ここでは、ヘロインユーザーを減らす、という目的や、アンダーグラウンドマネーの問題ももちろん考えられていますが、まず一義的にはそのドラッグの薬学的な有害性が問題なのであって、「夜回り先生」の言うことは、持論にとってのご都合主義的な拡大解釈です。

○大麻を吸うと「無気力」になって、「精神科」に行く

⇒なりません。大麻が広く用いられている社会で、「精神疾患」が多いわけでも、大麻が非犯罪化されたら大麻使用率が上がるわけでも(もちろんハードドラッグ使用率も)、大麻喫煙者とそうでない人とを比べて統計的に有意な精神疾患率の上昇がみられるわけでもありません。大麻喫煙によって「精神疾患」がもたらされうる可能性があるのは、「ヘビーユーザー」の中の、「未成年」もしくは「精神病の既往歴」がある人に限定され、それらですら因果関係は明確でなく、議論の余地があります。少なくとも、アルコールと比較した際の「精神疾患」率の問題は比較にならないほど軽微ですから、これは明らかに刑法の問題ではなく、福祉政策の問題圏です。

上記の問題に関して、依拠する文献は大量にありますが、最近のものを一部だけ挙げます。http://www.beckleyfoundation.org/pdf/BF_Cannabis_Commission_Report.pdf

http://drugs.homeoffice.gov.uk/publication-search/acmd/acmd-cannabis-report-2008?view=Standard&pubID=553884

そして、最後に

一方で「君たち」のためを大義名分として掲げながら、「君たち」を投獄し、退学させ、その出来事を「哀しいことだ」というのは、間違っている。そして、根拠を挙げず、自らの信念にのみ依拠して(あるいは、信念を守るために)投獄を正当化することは欺瞞である。

そうして、あなたは投獄によって人生が台無しになるからといいながら、投獄を支持する。それは暴力ではないのか。

監獄ではなく、医療と情報を。

大麻取締法にはノーを。哀しみもたらすだけ。

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土曜日, 12 月 20th, 2008 | Author: Nao

ご存知の通り、ギリシャがえらいことになっています

ギリシャだけではない。フランスでもスペインでも、そして先日はニューヨークでもお祭り騒ぎです。まあニューヨークはそれほどでもないっぽいですが。http://www.newschoolinexile.com/

少なくともEU諸国に与えているインパクトはかなりのものです。特に若年失業者が日本よりえらいことになっているフランスやギリシャでは、政権交代になりえる出来事でしょう。

とはいえ、写真をよく見ればわかりますが、もうごった煮状態です。思想的な背景とか、政治的メッセージとかはかなりばらばら。アナーキストの旗をもってる奴もいれば、警戒中のポリスに花を渡そうとして「今の俺かなりかっこよくない????」って奴まで、ごちゃごちゃです。しかし、今の労働状況/警察の横暴/現政権/首相はおかしくない?っていうところは、どうやら共通していますし、それは十分政権に伝わっています。

ギリシャの今回の暴動に関して、十分な知識があるわけではないので、解説は控えます。今回の出来事が68年の再来なのか、それとも「二度目は喜劇」として訪れる単なるお祭りなのか、おそらくギリシャ以外の地域では後者なのだと思いますが、単なるお祭りでも、こうした祭が行われること自体は、素朴に「うらやましい」と思います。

←こんな感じ、こちらに写真集ができています。http://www.boston.com/bigpicture/2008/12/2008_greek_riots.html

ひるがえって日本では、大学は至って平和ですし、むしろギリシャ暴動や、各地に飛び火している学生運動について、全く知らないかニュースを見て「何?テロ?へえー」「前もバンコクで空港占拠があったけど、迷惑だよね(観光客的な意味で)」と思っている学生がいる程度です。

blogなどをちょっと検索しただけでも、「迷惑」「他人のことを気遣っていない」「裏でアナキストが煽動しているらしい」といった反応多数(|| ゚Д゚) ってかクロポトキンでも、ソレルでもいいですが、アナキズム=無秩序ではないっつの。

以前、ジェノバで似たような活動をしたグループの声明文を引用しておきます。

銀行と多国籍企業のウインドウをこなごなに潰すことは、私たちの象徴的な行動だ。しかし、私たちは小さな商店と車の破壊と略奪には、決して同意していない。これは、私たちの方針ではないのだ。

もしウインドウがガタガタいったなら、あなたは叫び声をあげる。しかし、人びとが死ぬとき、あなたは黙りこくったままだ。歴史は、決して終わらない。

法政大学で政治的な看板を立てただけで、逮捕⇒退学のコンボを食らった人がいますが(国賠裁判中)、問題は大学が警察と結託していることでも、意味不明な逮捕と退学がまかり通っていることでもありません。問題は、同窓生が政治活動ででっち上げ逮捕されていても全く無関心な、この空気です。

同様のことは、大麻喫煙しただけで同志社大学で逮捕⇒退学させられた、四回生にもあてはまります。ちなみに、窃盗と暴行の容疑で逮捕された別の学生は「停学処分」になっていました。

暴行や窃盗よりも、大麻喫煙のほうが罪の重い大学/社会。そして、それに対して、「同志社の名誉を汚した」として同級生をなじる同志社学生のblogを見ました。(本人の名誉のためlinkは控えます)

では、日本ではこうした政治的なお祭り騒ぎはありえないのでしょうか。「政治的」ということであれば、ありえない。しかし、祭りがないわけではありません。少し前なら2chなどのネットを経由して、~祭りが行われてきたわけで、実のところ、こうした匿名性を前提とした「祭り」は頻繁に起こってきましたし、これって、ニューヨークで現在行われている大学占拠の「祭り」と、そう大差のないところで行われているのではないでしょうか。

しかし、そこに政治的メッセージはなく、名前もなく、全てが匿名の単なる群集にすぎない。

単なる群集と、目的をもった群集の差異について、J=P, サルトルが非常に有名な解説を行っています。

人が集まるということは、単にある場所で集まっただけでは、それはバスを待つ人々の列と同じく、何ものにもなりえない。これをサルトルは「集列(serie)」と呼び、集団と区別します。そして、こうした集列が、何者かになるということ、全体として、何者かであり、そしてそれは同時に、その集団に参加する人々が肩書きをもたない、「何者か」になりえるということですが、こうした集団をサルトルは「溶解的集団(groupe en fusion)」と呼び、具体的な例としてバスチーユ牢獄に向かう人々の群れを上げます。

日本語訳では「溶解」となっていますが、原語ではもう少しポジティブです。フュージョンですよ。ドラゴンボールを思い出しました。誰しもがばらばらに街頭へ出てくるものだから、それらの肩書きは分からない。医者であっても、ワープアであっても、とにかくその「祭り」に賛同できるのであれば、フュージョンしちゃうわけです。

もちろん、現実にはそんなユートピア的なことは起こらないだろうし、実際バスチーユ牢獄の後も、68年の後も、せちがらい内輪もめと粛清が繰り返されがちであったわけです。この点は強調されていい。

しかし、何者でもないある集列の一つの数字、バスを待つ後ろから~番目の人間であることから、ある目的をもって行為する「何者か」になるということ、それが政治の始まりであるということは、いいえるんじゃないだろうか。

ということで、明日(今日)は大阪サロンです。

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