今年最後のコラムになりそうです、こちらTHCのサイトで2008年を振り返る、といった記事があり、このHPも紹介してもらいましたので(thanks)、関西blogでも2008年を振り返ってみようかなと思います。
2008年の大麻報道を振り返る前に、カンナビスト@関西の活動をまとめておきます。
2008年マリファナ・マーチ(Osaka)をやろうという話しになったのは、去年の今頃だったかと思います。2007年はスタッフ(というか私)の都合で開催できなかったのですが、2008年はやっぱりやるべきだという意見が、東京在住のスタッフや、古くから関西で活動を支持してくれている人の間から上がりまして、じゃあ私がイベント運営をやりましょう、という流れになりました。
どの地域でもそうなのだろうと思いますが、特に関西という地域は、都市圏がばらけていて(大阪・神戸・京都)、かつ幾つもの地方都市がその周りにあることから、一都市に運動の中心を据える、ということが東京と比べると、比較的難しいということがあります。
ところがその反面、一旦やろうということになると、それぞれの地域の人が、それぞれのネットワークをもってやってきてくれるので、非常に広域的なイベントが開催されることになるんじゃないかとも思っています。実際、数の上では東京のマーチよりは少なかったものの、大阪マーチは東京よりも広域(四国から名古屋まで)をカバーする運動になったんじゃないかなと思います。
そして、結局マーチを開催できたのは、私ではなく、他の人の力に拠るものだったということを再度付け加えておきます。それは各地域から参加してくれた人はもちろんのことですが、実際運営に携わってくれた、当初全く会ったことのなかった人が、現在もボランティア・スタッフとして一緒に活動をしてくれているということであり、また、知り合いの知り合い、といったレベルであっても、運動に趣旨に賛同してくれた人が、完全にタダで出演などを引き受けてくれた、ということでもあります。この場を借りて感謝申し上げます。
さて、2008年は特に後半、「大麻汚染」報道が耳目を集めた年でした。初夏迄は、船場吉兆など「食品偽装」問題が主なワイドショーの対象になっていましたが、偽装問題がマンネリ化して話題がなくなったころに、若ノ鵬の逮捕があり、「大相撲大麻」問題から一連の大麻バッシングがスタートしました。もちろん、この背景には昨年からの「関東学院ラグビー部事件」があったりして、大麻問題をおどろおどろしく報道する、という下地は既にあったものと認識しています。
ところで、私は丁度、関東学院ラグビー部事件の後、学会で関東学院に行く機会がありました。あれほど騒がれた直後なので、学生や大学当局から何らかのアクションがあるものだと期待していったキャンパスには、何事もなかったかのようにクリスマスツリーの準備がされ、土曜日の中庭に人はまばらでした。いや、あの「ラグビー部事件」ってホントに関東学院だったっけ、と携帯からニュース検索しちゃったほどです”(,, ゚×゚)”
報道が「空虚な中心」だったのでしょうか、あるいは大学が「空虚な中心」だったのでしょうか。
おそらく、その両方だったのかもしれません。ラグビー部事件について、学生へのお説教を書いたA4一枚の学生課からの通達が、わずかに貼られていた程度でしたし、学会案内の学生をつかまえて、ラグビー部事件の話題を振ってみても(ゴメン)、「そうですね~、で、何か?」といった具合なのです。
その学生としては、同じ大学の学生が逮捕されたり「連帯責任」を負わされていることなど、以前の「食品偽装」問題の当事者と同じく、全く縁遠い、ニュースの中の出来事でしかなかった。もちろん、その学生を批判したいわけではなく、単にそのようなものに過ぎない、ということだったのです(おそらく、私の大学でも事態は同じだったでしょう)。
それは、単に毎日繰り返される、「パレスチナ人の死傷者が戦後最大の日」や「牛肉の表示偽装」や「また大麻で逮捕、覚せい剤も所持」といったトピックに埋もれた、特別性の日常的な反復に過ぎなかった。「偽装問題=ニューストピック」が特別化されているのか、「特別なこと」が偽装されているのか。少なくともそこでは、殺されたパレスチナに住む人々の「顔」は、何の問題にもならないのです。
そこでは「特別なこと」が一般化され、単純化されることで反復される。なぜなら、本当にその「特別なこと」を引き受け、リアルなこととして対処しようとすると、あまりの複雑性にニュースは成立しえないからです。したがって、ニュース的なものに対する最も正しい対応は、それを聞き流すことでしかない。
結局のところ、私も、多くのニュース的な「特別性」に対して、何も知りえず、何も活動を行うことはできないのです。わずかに、大麻所持によって懲役刑を科され、ある種の人々が社会的に排除されることに問題を提起することでしかない。最終的には、どのトピックに自己の問題関心を注ぎ込み、その「問題」に対する行動を行っていくかを決めるのは、偶然であり、決断でしかないわけです。あるいはあの学生は、大麻問題ではなく、もっと別の問題に取り組むものであったのかもしれない。
それを重々承知した上で、それにもかかわらず、私がここで特権化したいのは、取り組むべき問題とは、<生>に関わる問題であるべきであろう、ということです。
それはいかなる人々(あるいは生物)が、いかなる方法で生命や自由を剥奪され、「生きるに値しない生」として名指しされているのかを考え、行動することに他ならない。それは決して、いかなる消費物を持つべきかといった、消費社会における差異の提示―ニューストピックの提示手法と同列の価値を持つものではありません。だからホルクハイマーは、そうした方法による隠れた他者の利用は「道具的理性」によるものだと述べました。
したがって、ニュース的なトピック提示手法に抗する生き方、運動の方法とは、パレスチナ問題と芸能ニュースを、同列の平面における「話題」におくことで他者を消費することではなく、たった一つの他なるものに関わることでしかない。カンナビスト@関西はまだそうした問題に関わり始めたばかりですが、そうしたものでありたい、と願いつつ2009年を待ちます。










