水曜日, 2 月 04th, 2009 | Author: Nao

 佐藤哲彦氏の『ドラッグの社会学』世界思想社(2008年)に引用してもらったので、3年前、まだ博士課程だったころに発表した原稿を全文公開します。当時は発表に際して、いちいち口頭用の詳細な原稿まで用意していたのですが(最近は完全にアドリブに…)、散逸してしまい発見できませんでした。おそらく前使っていたPCHDDに置き忘れたままでしょう。

 以下は、第79回日本社会学会(社会病理部会だったと思います)の発表要旨集に掲載したアブストラクトです。カンナビストの活動を、距離をとって外部から眺めるとどうなるのか、という問題関心で、なるべく運動的関心を含まずに、それが不可能であるにせよ第三者の視点から描こうと試みました。聴衆が専門家だということと、アブストラクトだということで、専門用語に関する注釈はつけておらず読みにくいと思います。文末に注釈をつけなおした修正版として、ここに公開します。

 

日本社会学会第79回大会報告原稿

大麻非犯罪化運動の論理

山本奈生

 

 目的と方法

 大麻の取締りが国際的に見て様々な方法で成されていることは広く知られている。オランダなどほぼ自由化されている地域や、イギリスなど個人使用に関しては摘発されない地域もあれば、所持だけで厳しい刑罰が科せられる地域もある。日本は無論後者であるが、そうした大麻取締りの見直しを求める市民運動が90年代後半から、インターネットを主な宣伝媒体として立ち上がってきた。本報告では、「大麻の刑罰の軽減化」を掲げる市民団体「カンナビスト」が発するクレイムの内容を分析し、そのクレイムが日本のドラッグ政策に対して、どのような批判を投げかけうるのかを示すこととしたい。

 研究方法は2005年3月から現在に至るまでの参与観察記録を元に、カンナビストのクレイム分析を行う。大麻の是非を巡る問題から道徳的な価値判断を切り離すために、「社会問題の構築主義」でよく言われるような「社会の状態」への言及は控え、主にカンナビストの言説に対してアプローチすることとする。対象とするデータは2005年度にカンナビストが外部団体に対して送付した要望書や抗議文、メンバーに対するニュースレターなどのテキストデータとフィールドノーツの記録であり、これらを「グラウンデッド・セオリー」(グレイザー&ストラウス)により分析することで、カンナビストの<論理>を見ることにしたい。

 

 カンナビストのクレイム

 「私たちは、大麻の有害性は一般に考えられているよりもずっと低く、大麻を使用することによる弊害よりも、それに対する刑罰・制裁の方がはるかに大きいことこそ真の大麻問題であると捉えています」。カンナビストの運営委員は自らの意見を端的にこう表明する。

カンナビストは1999年に発足し、現在までにインターネット会員を中心として4000人あまりの賛同者を集めており(実質的に活動に協力している支援会員は400名程度)、大麻の個人使用で退学、退社せざるを得なくなった人への支援、退学を決議した学校などへの抗議、裁判支援、日本弁護士連合会への人権救済申し立て、メディアや厚生省などへのロビー活動、野外でのデモ活動などを、東京、大阪、札幌で行っている。まずは、彼らが<問題>とする日本の大麻取締りの状況を見ることにとしたい。

麻薬・覚せい剤取り締まりセンターは大麻取締りの論拠として、大麻を使用すると「大麻精神病と呼ばれる独特の妄想や異常行動、思考力低下などを引き起こし普通の社会生活を送れなくなるだけではなく犯罪の原因となる場合もあります」とし、大麻を「社会問題の元凶」と位置づける。従ってカンナビストのクレイム申し立ては、これに対する反論が中心を占めることとなる。

すなわち、大麻が「精神病」や「犯罪」や「社会問題」の原因に果たしてなるのかという部分を論点とするが、これに関する対抗クレイムをカテゴリー化すると次のようになる。

 1)「科学的」真偽判断の妥当性、2)国際化のレトリック、3)社会的不利益の主張、これら三点が主なクレイムとして浮上してくる。1)は厚生省が参照する大麻の「有害性」に関する主張には科学的根拠がなく、「アルコールやタバコよりも害が少ないというのが海外の最新の研究結果」であるとし、WHOのレポートや「メルクマニュアル」など、多数の論文を引用して大麻の有害性が低いと主張するものであり、カンナビストが最も高い頻度で行うクレイムである。

2)は「欧米の先進国」では個人使用を犯罪化していないとする説得のレトリックであり、3)では「覚せい剤などとは異なり」大麻を取り締まることの正当性を担保できないのであれば、現在の大麻取締りは不当に人権を侵害するものであり、また医療使用を妨げ患者の選択肢を狭めるものであると主張される。

 すなわち、大麻の有害性に根拠がない以上、有害であることを刑罰の論拠とすることはできず、それゆえ大麻取り締まり法による逮捕は人権侵害であるというのがカンナビストのクレイムであるが、そうだとするならば、これは単に「被害者なき犯罪」をどのように処遇するのかという問題には行き着かず、大麻問題における有罪/無罪や有害/安全の二元コードを巡る科学的真偽判断のアリーナに留まってしまうことにならないだろうか。つまり、大麻だけを単に、<合法>的領域へと引き入れようとする運動だということになる。

 無差別に活動への参加を呼びかけるインターネットを主要な宣伝媒体として立ち上がったが故に、カンナビストのフレーミングはかなり重層的な様相を呈している。そのため、上記のような、「覚せい剤はもっと取り締まれば良いが」大麻は問題無いとするような、素朴な大麻解放論者も存在するが、しかし、カンナビストの言説を分析していくと、よりメタレベルでドラッグ政策そのものや、官僚制を批判するクレイムが多くの割合を占めていると言えよう。

 例えば、「有害性が確定していない」事物に対して、大麻取締法や道徳的ラベリングそのものが「この問題について理性的な議論すらできない状況を作り出している」ことを問題とし、大麻の害悪そのものは括弧にいれた上で、「社会一般の誤解や偏見」あるいは硬直化した「官僚制」を批判するスタンスである。ここから、「ハンセン病」や「同性愛」問題に対して目を向け、新原・牛山の言う「他者へのまなざし」を内包するクレイムも同時に立ち現れてくる。さらに、「罪刑均衡」の原則や、たとえ「有害性」があったとしても取り締まりそのものがそうしたリスクを下げるのではないとし、その他の「ドラッグ」に関しても「取り締まりよりも治療を」求めるような、ドラッグ政策全般に関する批判的視角を見ることもできる。すなわちフーコー的な「生―政治」そのものを批判して、ルーマンのいう「脱中心化」した社会を前提とし医療的領域と道徳的領域、法システムをそれぞれ切り離した上で、そこでどのようなシステムを走らせ、リスクマネージメントをするべきかを論ずるスタンスを確保した上で、いわゆる「ゼロ寛容」政策から「ハームリダクション」政策への転換を求める方向へとクレイムが拡大していく流れを追うことができるだろう。

 

<引用文献>

グレイザー&ストラウス、1967/1996、『データ対話型理論の発見』後藤隆、大出春江、水野節夫訳、新曜社

新原道信、牛山久仁彦、2003、「市民運動の多様性」、矢澤修次郎編、『講座社会学15、社会運動』、東京大学出版会

 

用語注釈(09年追加)

社会問題の構築主義80年代にスペクターとキツセによって提唱された、「社会問題」の素描方法。社会問題の「本当の」原因や因果関係など、研究者が外部から挿入する問題の「物語化」を排して、表面的に観察される当事者間のやり取りや、記事などを研究対象とする。

クレイム申し立て:異議申し立て、と同義。またレトリックは、詭弁という意味ではなく、「社会問題の構築主義」における、あるクレイム申し立てにおける戦術、という意味。

フレーミング:社会運動研究の用語で、Snowなどが提唱した「フレーミング論」に由来している。ある社会運動が、広範な不特定多数のものに呼びかける際、ある種の社会観や、問題観を提示するときに採用される大枠のこと。

生―政治bio-politique):フーコーの用語。フーコーによると、19世紀以降の「主権者」が取る権力の形態は、1)身体性に対する直接的介入(絞首刑)、2)あるべき「魂」を定め、そこから外れるもの(例えば同性愛)を「逸脱化」することで、内面的な矯正をもたらそうとする「規律・訓練」、3)内面的志向ではなく、統計的指標を用いることで、空間的にあるべき物事を配置しようとする(例えば、ペストの抑止政策)「人口への統治性」、の三点の混合物であり、これらの総体が「生政治」である。

脱中心化:社会システム論の大御所、N、ルーマンの用語。ルーマンによると、後期近代の社会においては、前近代の社会のように、全てのシステムを統制する「管制高地」としての絶対的基準は存在しない。かつては宗教的システムによって、法学や政治の基準が算定されてきた、すなわち宗教神学の下位システムとして、法学があったが(トマス・アクィナスの時代まで)、近代化が進むにつれて、それぞれのシステムは「機能分化」し、全てのシステムを統制するようなコードは存在しなくなる。

 

 ところで、フィールドワーカーは必ず、ある「現場」の出来事を描写する際に、何を地として何を図とするのかを決定しなければなりません。すなわちルビンの壺を「ツボ」としてみるか、「横顔」としてみるのかが、認識の前提をなす「決定」であるように。(無論フィールドワーカーだけでなく、メルロ=ポンティ風にいえば、見るということ、すなわち「眼」は必ず、世界と出会う際に焦点を絞り、その目線のあわせ方によって、世界と遭遇します。) このレジュメは、カンナビストである私が、カンナビストを外部から描写しようという、かなり無理のある習作です。

 

 この点について、佐藤氏のHPをみていて以下の文章を見つけました。

「ある一つの視線はそもそもはその対象だけを全体の中から浮かび上がらせる。それは視線と対象との出会いであり、またその二つで閉じられた世界でもある。しかしながら絞るという作業が入ることで、その世界は絞られるのではなく、逆に開かれる。出会った世界が開き、前景や背景が合焦され、対象がすでに開かれた世界の中にあったことに気づかされる。

絞りは方法論であり、絞るという作業は方法論的である。」

http://akisato.tea-nifty.com/

Category: コラム
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2 Responses

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